京都大会に思う

先日、深まる剣の悩みに、何かしら光明を見出せないものかと思い、生まれて初めて京都大会を見学に出かけた。
そこで見た諸先生・諸先輩の立合いに痛く感ずるところがあり、自分なりに色々と考えてみた結果、下記のようなテーマを得た。
1.「剣先の攻め」ということについて
京都大会の立合いを見ていると、もれなく剣先の攻め合いを行っている。
それも、ただ剣先をかちゃかちゃとぶつけ合っているようなものでは当然無く、緊迫したムードの中で剣先が触れ合っている。
傍から見ていると、緊迫したムードは伝わってくるが、残念ながら、その意図は良くわからない。


福岡に戻って、京都大会で見た剣先の動きを稽古でまねようとしてみたが、実は同じようにやるのは難しいことがわかった。
そこで、京都大会で見た剣先のやり取りを頭において、色々な文献を読み返したりしてみたところ、「攻め」の理合に行き着いた。
陰陽、虚実、表裏・・・剣道におけるこれらの概念が「攻め」の理論上のよりどころである。
剣先で相手の意図を探り、相手の想念を読み、打突の機会を探って、機会を捉えて逃さず打つ。
打突の機会は基本的に、起こるところ・受けたところ・尽きたところ・居ついたところの4つ。
この4つ以外のところで打突に出るのは「無理」と言うものである。
打突の間合いは基本的に、遠間・蝕刃の間・打ち間・近間の4つの内の「打ち間」から行う。
遠間や近間からの打突も当然ありうるが、基本は確実な打ち間からの打突であろう。
これらの相手の心の状態と機会と間合いを的確に判断して、決断したら迷い無く打突するのが剣道の目指すところである。
相手の心の状態は相手にしかわからないので、そこに推理は欠かせない。
相手の心の状態を推理する上でのよりどころが、上述の陰陽・虚実・表裏といった剣の理合であると言えるだろう。
打突前の剣先の攻防は、「剣の理合」と、これまでの修行で培った「剣道勘」を総動員して行う知的な索敵活動だと言えそうだ。
そう考えると、ただちゃかちゃかと相手の竹刀に自分の竹刀をぶつけているだけでは駄目なことは自明の理である。
2.「ズズーッと迎えに行って、手の内でパンッと打つ」ということについて
京都大会会場にて千葉仁範士のDVDを見る機会があった。
色々と勉強になる大変ありがたい内容だが、もっとも参考になったのは、「相手の打ち気を察したら、ズズーッと迎えに行って、手の内を使ってパンッと打つ。」と言う部分だった。
相手の打ち気が形になる前に、その打ち気を迎えに行くことで形に変えさせ、形として現れた打ち気の起こりを、無理なく打ち据えると言う攻めである。と解釈できる。
3.「一拍子の打ち」について
京都大会の会場の書籍販売コーナーで、「剣の完全操作法」と言う考え方が存在することを知った。
森田文十郎範士が著した「腰と丹田で行う剣道」には、剣道人を悩まし続ける「一拍子の打ち」への取り組みに際しての理法が明快に解説してある。
ここにある内容を研究することによって、長年の悩みの種である「気剣体の一致した一拍子の打ち」への取っ掛かりがつかめるかもしれない。
以上のとっかかりを得て、ますます勇気付けられた京都大会であった。

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ