「心を止めるべからず」について

いつも最後まで読んで頂いてありがとうございます。
在津@金沢です。
剣道で大事なことには本当に色々と多くありますね。
ひとつひとつ丁寧に教えてくれる師匠がいたらなぁ・・・。
素晴らしい師匠について修行ができる剣士は本当に幸せですね。
師匠との出会いに恵まれない剣士の方が圧倒的に多い現代で
唯一誰もが平等に得られる師匠は書籍だと思います。
剣道に関係のある書籍を読む時は、自分の想像力を最大限に発揮して
目の前に師匠が居て、自分に話をしてくれているというような気分で
自分の心のこだわりを極力封印し、何を伝えようとしてくれているのかを
理解することに全精力を注ぎ、素直な気持ちで読むようにしています。
それでも、書籍だと、目の前で師匠が口伝してくれれば無いような事で
困る場合があります・・・それは言葉の読み方です(^_^;)
特に昭和初期以前に書かれたものを読むのは大変難しいです。
例えば、「心を止めるべからず」という言葉ひとつとっても
多分、「こころをとどめるべからず」と読むんだろうなぁと思うものの
確信は無かったりします。
「こころをとめる」かなぁ・・・ここでこの字の読みに一時心を奪われて、
文字通り「心が止まって」しまったりして・・・(T_T)
心を止めてはいけないという内容を読みながら心を止めている私。
何をやっているのかわからないですね(*_*)
(この例だと、まさに内容を「体感」できているのかもしれませんが・・・)
口伝ならはじめから音があるのでこんな余計な苦労は無いだろうなと思いつつ
四苦八苦しながら読み進めています。
(口伝なら私のような者に奥義を語ってはくれないでしょうから一長一短ですね。)
さて、いい機会なので、例に使った「心を止めるべからず」について少々。


これは、ひとつの事物に注意を奪われた状態である「止心」を戒めた教えです。
剣道に限らず、心を配るべき対象がたった一つしかないことは稀です。
大抵の場合、一時に色々なことに心を配る必要があります。
そんな状況で、ひとつの物事に心が囚われれば、他の全てのことに対して
注意が足りなくなるのは心理上の原則で自明の理です。
剣道にこの自明の理を取り入れましょう。
相手が面に来れば面を防ごうとし、篭手に来れば篭手を防ごうとしてしまう。
相手が打ち込んできたら受けよう、外そう、かわそうと考える。
相手の起り頭を捉えようと剣先を見る。
相手の出端を捉えようと足先を見る。
相手の心を読もうと相手の目を見る。
剣道をしていれば誰もが経験する日常の光景ですよね。
この日常のそこかしこに、心が止まりそうな危険なわながあふれています。
このわなに引っかからないように修行しましょう。
これはいわば人の弱点で、自然にしていれば必ず心は止まってしまいます。
ある流派では、剣先をセキレイの尾のように動かせと教えます。
剣先を常に動かすことで心が止まるのを避けようと言う知恵のようです。
やってみるとわかりますが、剣先が止まっていると心が止まりやすくなります。
剣先を小刻みに動かしながら他のことにも心を働かせようとすると、
悪く言うと一箇所に集中することは難しくなります。
この作用を逆に利用しているのでしょう。
剣道では、大抵の場合、どこかに心が止まることで相手に引き回され始めます。
そして結局は、自ら相手が自分の先を取り易い状態に陥って、
相手に先を取られて打ち破られてしまいます。
このようなやられ方をすると、自分がなぜやられるのかわからない状態になります。
攻めていても、相手の太刀を切り落とす度、受ける度、一太刀打つ度に
心が止まると、切り落としっぱなし、受けっぱなし、打ちっぱなしになる。
これは自分で体感しやすいところでしょう。
心の働きをよどみなくし、向かい合っている時も、打ち合っているときも、
相手の細胞ひとつひとつに心を染み渡らせるように、更にもっと広く、
対戦している相手だけでなく、二人を含む周囲全てにこころを働かせて
自分の心で全体を覆うような心持ち・・・後は感じて動く。
そういえば、今の海老蔵が出演していた大河ドラマの「武蔵」で
柳生石周斎が武蔵に「立合いの時に鳥の声が聞こえるか?」と
聞くシーンがあったような(?_?)
だからと言って注意散漫になってしまっては元も子もありません。
よく研究しましょう。
心が止まらなくなる修行を積まないと使えるようにならないのが
「陰陽の理・虚実の理」です。
というわけで、「陰陽の理・虚実の理」については
次回のテーマといたします。
戸締り用心火の用心、一日一善。
健やかな精神は健やかな肉体に宿ります。さぁ、稽古しましょう!
それでは、また土曜日にいつもの道場でお会いしましょう。

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ