剣道の良いところ

竹刀を刀として考えれば、絶対に相手に打たせてならないのに、打って反省、打たれて感謝、上手に打たれる人は、上手に打つ可能性のある人などの言葉自体が矛盾している。奥が深いと感じました。

ある方からのメールで上記のようなお話を受けました。
これについて感じることを書いてみます。

「剣道」のよいところは、潔く切られてもまた次があることではないでしょうか?
死活の技術である「真剣の剣法」だとそうは行きません。竹刀で切られても命までは失わないからこそ、相手の竹刀をよけるのではなく、潔く切られるという選択肢も選べる。
その選択を心にもてるからこそ捨て身の技の稽古ができる。

捨て身の技の稽古を通じて命の捨て所をわきまえて行くのだと思います。
捨て身になるたびに命が危うかったらそこから学んだ頃には死んでいますよね。

打たれても死なないわけですから、打たれることを厭う必要がなくなります。お陰で、打たれたことの中から多くのことを学ぶことができるようになります。打ってくれたお陰で成長できるわけですから、ここに「打たれて感謝」という気持ちもうまれるのではないでしょうか。

強い先生ほど、時々私達でも打てたりするのも同じ理由だと思います。本当に強い先生は、打たれるときは潔く打たれているからでしょう。「自分は成長したいが相手の成長なんて関係ない」という剣道ではなく、相手がいて自分がいる。相手のお陰で自分が成長する。ついつい「打たれたくない」という剣道になりがちな所を戒めて、あえて「打たれる」。

「打たれない剣道」には進歩がないのは明らかです。逆に言うと、一度や二度「打った」からといって、同じ相手で、同じ場面が百回あったとして、百回全て打てる完璧な技をいつでも出せるようになったというわけでもないと思います。その意味では、打つことができた中にも、「なぜこんなに完璧に打てたのか」から始まって、いくらでも反省点を探すことができるのではないでしょうか。そこをさらに意識して定着させたり、改善したりしていくという姿勢が、次の一撃の質を高めることにつながる。だからこそ「打って反省」なのだと感じます。竹刀を使った「剣道」だからこそ可能な求道活動だと思います。

剣道が奥深いことは全く同感です。

あくまで剣の理法を修錬する中にしか明日はないわけで、一番大事なのは竹刀を握って稽古をすることですね。一緒に答えを探して取り組んでいきましょう。

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ