山岡鉄舟の「剣禅夜話」から

今回は、私が最近読んだ「山岡鉄舟 剣禅話 高野澄編訳」という本に
興味深い話がありましたのでご紹介したいと思います。
山岡鉄舟が明治13年の4月に書いた「剣と禅理」の中に
商人の話がきっかけで悟りにいたるというくだりが出てきます。
本当は原文をそのままご紹介するのがよいのだと思いますが、
ここでは要旨だけご紹介します。
ある日、山岡鉄舟のもとに、書が欲しいと一人の豪商が訪ねてきた。
彼が自分の経歴を語った中に、次のような興味深い話があった。


世の中は不思議なもので、とても貧しい家に生まれた自分が
今では巨万の富といっていいようなものを手に入れることができた。
これは、思いのほかのことといえるのだが、
ひとつだけ自分の若い頃の経験で貴重に思っていることがある。
あるとき、まとまったお金ができて商品を仕入れた。
ところが、すぐに物価が下がり気味だという評判が立った。
そこで、早く売り払ってしまいたいものだと思っていると
知人たちがその弱みに付け込んで安く買い叩こうとかかってくる。
だものだから、自分の胸はどきどきしてしまい、
気持ちも浮き足立ってあれやこれや迷ってしまい、
本当の物価の事情を知ることもできないほどになってしまった。
そこで、すっぱり決心を固め、どうにでもなれと放っておいた。
するとそのうちに、今度は商人たちが原価の1割高で買うと言ってきた。
そこで売ってしまえばよかったのだが、今度は欲が出てきて
もっと高く、もっと高くと思っているうちに、今度はさらに状況が変わり、
結局最後は原価より2割以上も低い値段で売ることになってしまった。
自分が商いの気合というものを知ったのはこのときが初めてだった。
思い切って大きな商売をやってやろうというときに
勝ち負けや損得にびくびくしていては商売にならぬものだとわかったのだ。
つまり、これは必ず儲かるぞと思ってしまうと、どきどきするし、
損をするのじゃないかなと思うと、自分の体が縮むような気分になる。
そこで、こんなことで心配しているようでは
とても大事業なんかできっこないのだと思い直した。
それからというものは、たとえどんなことを計画するにしても
まず自分の心がしっかりしている時にとくと思いを定めておき
いざ仕事にとりかかったときには、あれこれ一切考えないようにして
どしどし実行することにしてきた。
その後は、損得は別にして、まずは一人前の商人になれたものと思って
今日までやってきている。
鉄舟はこのころ、剣の極地を悟る、そのすぐ手前に達しながら、
過去何度立ち会っても自分の力量で、はるかに及ばないと感じてしまう
浅利又八郎という剣豪の幻影に打ち勝てずにいた。
そのため剣に開眼できずに苦しんでいた。
そこで、禅の師匠から
両刃、鉾を交えて避くるをもちいず、好手還りて火裏の蓮に同じ。
宛然おのずから衝天の気あり。
という有名な火裏の蓮(かりのれん)の公案に取り組むようにいわれた。
この公案に取り組んで思ったところと、商人のはなしで感得したところを
翌日から剣法の実際に試し、夜になると沈思精孝するということを繰り返した。
5日目の夜
いつものとおりに呼吸を集中していると、
天地の間には何物もないのだという心境になっている
自分の存在が感じられてきた。
既に翌朝になっていたが、座ったまま、
浅利又八郎に向かって剣を振り、試合をしている姿勢をとってみた。
すると、いつもはそこで、鉄舟の剣の前に山のように立ちはだかり
とても打つことがかなわぬように思えた浅利の幻影が今は見えない。
ここに、鉄舟はついに無敵の境地に至った。
と、下手なりに要約すればこのような内容でした。
もちろん、私などは、とてもとても鉄舟のレベルには及びませんが、
この商人のはなしには感じるところがありました。
九州松下を退職してこの10年、色々な困難がありましたが、
いつも剣道が私を支えてくれるように感じていた理由が
この話しの中にあるように思えます。
剣という本来は殺傷道具でありどちらかというと野蛮なものを通じて
心を修め、人間形成を図るという、日本独自の伝統文化である剣道。
最近では韓国が剣道のルーツは韓国だなどといっているようですが
剣道は競技性だけで剣道足りえるような薄いものではありません。
その競技性もさることながら、精神性の高さが剣道の価値だと思います。
奢ることなく無敵を悟る。
そんな尊敬に値する先人が数多くいるのもすばらしいことです。
剣道の奥深さを、少しでも多く味わえればいいなと思います。
今年もよろしくお願いしますm(__)m

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ