「先」について

以下は、あくまで、「先」に関する私見である。
高野佐三郎範士の「剣道」によると「先」には「3つの先」があるという。「先々の先」「先(先前の先)」「後の先」の3つがそれだ。
剣道においては「機先を制する」ことが最も大事であり、この「3つの先」を手中に収めることができるかどうかが最重要課題であることには異議も少ないだろう。
剣道にはただ「攻め」があるのみで「受ける」も「防ぐ」も、「攻め」の途中の姿としてあるだけであり、単独では存在しない。と高野範士は言っている。つまり、「かわす」も「外す」も「切り落とす」も「受ける」も「張る」も、「受ける太刀は打つ太刀」の精神で、全て瞬時に「切る太刀」「突く太刀」に変わるのでなければならないと言う考え方である。


例えば「切り落とす」と言う場合には、切り落としてから後に勝つのではない。
切り落とすと同時にいつの間にか敵に当たるのだという。
これを「石火の位」、或いは「間髪を容れず」という。
そのような精神で相対したときに、相手が起こるより先に、「敵の起こりを機微の中に見つけて直ちに仕掛け」て打つのが「先々の先」。敵の「先」に更に先んずるの「先」であるから「先々の先」という。
この「先」では、敵はまだ形になっていないところを、こちらから始めて形に表すので、傍からはこちらが一方的に打ち込んでいるように見える。こちらから懸かるので「懸かりの先」とも言う。
敵のほうから隙を見て打ち込んできたものを、敵の「先」が効を奏する前に早く「先」を取って勝を制するのが「先」である。これは「先前の先」とも言う。応じ返したり、摺り上げたり、体をかわして引きはずして打つなどは全て「先」の技である。敵からも懸かり、こちらからも懸かった上で、お互いに対抗して勝つので「対の先」ともいう。
最後に、敵のほうから隙を見て打ち込んできたものを、切り落としたり凌いだりした後で、敵の気勢が萎えるに乗じて打ち込んで勝つのが「後の先」である。
日本剣道形にはこれらの「先」が盛り込まれていると言われている。1・2・3・5本目が「先々の先」の技、4・6・7本目が「後の先」の技を示している。形の上からだけ見ると、日本剣道形には、仕太刀が先に仕掛けて勝つ技は無い。全て打太刀からの仕掛け技となっている。これが「先」に対する理解を悩ます元凶であった。
考えれば考えるほどわからなくなる「先」の問題について、最近、ひとつの興味深い考え方に出会った。
三橋秀三範士が生前「先」について語った録音テープを起こしたという剣道日本5月号の特集記事がそれである。
これによると、「先」を考えるときには、「技における先」と「機会における先」とを区別して捉えるべきだとある。なるほど、これならばいくらか理解しやすいかもしれない。
武蔵が「五輪の書」で説いた「先」や、高野範士が「剣道」で説いた「先」は、いずれも技が発露する局面における「先」を解説したものであると考える。
この場合、「先々の先」とは仕掛けて打つ理、「先」とは相打ちの理、「後の先」とは切り落とし凌ぎなどして敵の気勢が萎えた後に打つ理を言う。
一方で、日本剣道形に内包されているといわれる「先」は、機会を捉える局面における「先」を表現したものであると考える。
この場合、「先」自体は打突の機会を逃さない心持ちを示す言葉として存在し、理合としては「先々の先」と「後の先」の2種類しかない。
ここでは、「先々の先」とは「読み」によって機会を得る理であり、「後の先」とは「反射」によって機会を得る理である。
この考え方で行くと、「先々の先」の剣道を目指すと言うことは、心に「読み」を働かせて機会を捉え、一拍子に「仕掛け技」で勝つ剣道と解釈できそうだ。
技自体は「先」や「後の先」の技であっても、心に「読み」を働かせて機会を捉えるならば、「先々の先」で行う応じ技、返し技というものも成り立ちそうだ。
機会を捉える局面における「後の先」では、あらゆる剣道体験の集積からかもし出される「剣道勘」に基づいて、あらゆる敵の打突に対応し、反射的に機会を捉え、切り落とし、凌いだりして敵の気勢をそぎ、相手の気勢の萎えたところで無理なく勝ちを収めることができるという究極の姿がイメージできる。
形に表れるのはこちらが後であるにも拘らず、いかなる攻めに対しても、こちらが形勢を逆転して、最終的には「先」を取り、無理なく勝ちを収めるというところに極意がありそうだ。
色々な文献を読んでいると、剣道は、「若いうちは「先々の先」の稽古を積んで、老いては「後の先」にて円熟する。」というイメージが強い。
実際には「後の先」と言う言葉が、あまりよい意味で用いられなかったり、積極的に解釈されなかったりして、なかなかうまくイメージできなかったりするが、これも、三橋範士が言うように、技の局面、機会を捉える局面の2方面から「先」を考えていくと、少し言葉を足して、「「先々の先」で「機会」を捉え、「先々の先」の「技」で勝ちを収める修行から始めて、「後の先」で「機会」を捉え、「後の先」の「技」で無理なく勝ちを収めることができる境地に進むように修行を積む。」というイメージで進むべき方向が見える気がする。
まずは、この「機会」を捉える局面に際して、「読み」で捉えるのか、「反射」で捉えるのか、この違いによって「先々の先」であるか「後の先」であるかが分かれる。
次に、いずれかの「先」で「機会」を捉えたら、「3つの先」のいずれかの「技」で勝ちを収める。
これが「先」の全体像であると理解できそうである。
「機会を捉える局面」においては、意識を超えて反射の世界で捉えきる「後の先」が、「技の局面」においては、相手が形になる前に仕掛けてしとめる「先々の先」が奥義と言うところか。
この解釈で考えると、「後の先」にて、「読み」ではなく「反射」的に「機会」を捉え、「先々の先」の「技」で勝ちを収めるなどと言う神業的な剣道もイメージできる。技の起こりではなく心の起こりを捉え、思う前に捉えるというのはこのようなイメージだろうか。これなら妖怪さとりをさえも倒せるかもしれない。
山岡鉄舟も、間違った修行を続けていては、年老いたり病にかかったりして体が思うように動かなくなったときには、剣の修行をしたことが無いものにすら及ばないようになってしまう。このような剣道では、折角の修行も時間の無駄と言わざるを得ないと言っているようである。
年老いてなお輝きを失わない「不老の剣」を目指したいものである。
そのためにも、この「先」についてしっかりと研究し、まずは、「4つの許さぬところを「機会」として逃さず捉え、相打ちの精神で積極果敢に打ち込んでいき、相手の「先」が効を奏す前に「先」を捉えて勝ちを収める、「(先前の)先」の剣道からはじめて、「先々の先」の剣道へと進み、「後の先」の剣道を最後の楽しみとするような稽古に取り組んでいくイメージで考えるのがよさそうである。

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ