先々の先の技について

先々の先の技について私が最近考えていることを書いて見ます。
これまで、私は、剣道の技はどれも同列なモノだと認識していました。
先々の先、対の先、後の先、そのどれもに同等の価値があると思っていました。
一方で、相手と立ち合う時に、仕掛け技でいくのか、
応じ技でいくのか、或いは担ぎ技で行くのか・・・。
それらの「技の選択」については、はっきりとした基準を持っていませんでした。
「先々の先の技」の評価が高く「後の先の技」は評価が低い、或いは、
「後の先の技=待ちの技」というイメージに対して違和感がある一方で、
いきなり「後の先の技」を狙っていくというのもしっくりこないものを感じていました。
下記の記述に出会うことで、このような漠然とした「技観」が少々変わりましたので、
参考になればと思いここでご紹介いたします。


「忘れられた攻防一致」
剣道においては攻防一致とよく言われるように、相手と自分自身、
どちらにも50パーセントずつ打つ機会、可能性を秘めています。
ところがその50パーセントの中だけで、お互いが自分勝手に打ち込み、
一方、相手の打ちはというと、たとえば相手の懐にもぐり込むようにして、
もがき苦しんでその打突を避けている。
「打ち上手に打たれ上手」という考えは、そこには全くなく、
「打ち上手に避け上手」が剣道であると勘違いしてしまっているのです。
すなわち攻撃のための攻撃、防御のための防御でありそれらは全く分離されてしまっているのです。
いわゆる50パーセントの剣道であり、よく言えば激しい剣道ですが、悪く言えば、全く優雅さがない。
言い換えれば、次への展開を切り開く分野がなく、ただ単に自分勝手に打ち込んでいくだけのものなのです。
剣道本来の「打って良し、返して良し」という内容ではなく、
「打って良し、避けて良し」という内容が、現在では主流となってしまっているのです。
私は師匠(父)以外で、自らの剣道に最も影響を受けたのは阿部三郎(範士八段)先生です。
まだ私が学生で、恐らく先生が45〜46歳の頃だったと思います。
当時の先生とのお稽古は今でも忘れることのできない強烈な印象として残っています。
先生の攻めと防御の中には切れ間がなく、その起こりを捉える柔らかさ、そしてその起こりが遅れたらすり上げる、
さらにそれが遅れたらいよいよ応じ返すという三段階にわたるバリアが張りめぐらされているのです。
懸かる方からすると、ひとつの城壁を乗り越えていったと思ったら、
そこにはもうひとつの壁があり、尚かつそれをも乗り越えて「しめた!」と思うと、
最後の城壁でガツンとやられてしまう。
一言で言えば、攻防における懐の深さというのでしょうか。
そういう稽古に我々は凄く憧れたもので、それが本当の意味での攻防一致だと思います。
相和するということが受け入れられないのは、技術的に解説するならば、
その攻防一致が先に述べた用に分離されてしまったということも、大きな要因であると考えます。
打突の好機がタイミング化してしまっているのです。
このタイミングは若さの特徴なのです。
そうすると若い方が勝つのです。
これがスポーツの特徴でもあるのです。
(続・剣道芸術論 馬場欽司著)
ここに出てくる阿部先生は、今の所、私が目指す剣道イメージそのものとなっています。
阿部先生のような「打って良し、返して良し」の剣道を目指す取り組みは、この逆の流れになる気がします。
つまり、相手と向かい合ったら、まずは「先々の先の技」でしとめることを目指すところからはじめる。
「先々の先の技」は、余程のことがなければ決まらない究極のイメージですので、当然ここで決めるのは困難です。
そこで、「先々の先」を捉え損ねたら、次は「出端」を捉える技に切り替わっていきます。
相手が上手で、この「出端」を逃せば、続けて「起り」を捉える技に切り替えます。
この「起り」すら捉えきれなければ、繰り出された相手の技に対して「応じる技」、
このタイミングにも遅れれば、相手の竹刀がまさにこちらを切ろうとするところで「返し技」、
それでも駄目なら潔く切られる。
上記のいずれかで打突したものの決まらなければ、さらにそこから上記の繰り返しで
休みなくよどみなく粛々と攻め続ける・・・そんな剣道をイメージしています。

この記事を書いた人

剣道錬士六段 ザイツゴロウ