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2005年09月29日

「立合いの際の心がけ」について


今回は、「立合いの際の心がけ」について考えて見ましょう。

この点について、伊藤陽史範士は、次のように述べています。

打とう打とうと思わないで、「先」の気で相手を攻めているか。
私は道場の門下生には

「先に攻め、相手をおびき寄せ、先を起こさせ、先に打たせ、その先を打て」

と教えています。

前に攻め、後へ「間」をとり、相手をおびき寄せる間合いの駆け引き、
これが大事な「先」の位取りです。

このとき、先に打たせて起こりを打つのが上乗の勝ちですが、
強い攻めばかりでは相手は打ってきません。

攻め合いの中で、フッと抜くというか、
弱めるというか、相手を引き込むのも攻めです。
前に出るだけが攻めではない。
ここを遣えるようになると、しめたものです。

誰でも打突の際には、隙ができるものです。そこを打突するのです。
ただし、待っているのではありません。こうして攻め合いをするうちに、
ハッとひらめいたら、ここではじめて己を捨ててうちに出るのです。

死なばもろとも、相打ちの精神が大切です。
真剣勝負は一回きりです。
この一本で死ぬんだと言う一本が出るまでの攻め合いが
剣道ではないかと最近つくづく感じるようになりました。

また、水野仁範士は次のように述べています。

無欲・無心になりきり、心静かに一点の曇りのない状態で(明鏡止水)、
呼吸を調えて構え、少し遠間に距離を保ち、一寸刻みで間を詰め、
触刃の間、交刃となり、一足一刀の間から攻め崩し、打つ機会があったなら
思い切った捨て身の技を出すことであるが、
中心線を攻めていれば必ず打つ機会が生まれる。
心の焦り、心の不安を捨てて、ただ無心で打ち込むことである。

さらに、湯村正仁範士は次のように述べています。

剣道は「打った」結果ではなく、一本「打つ」ための課程が大切です。
攻め切って打つか、または打たせて打つかどちらかです。
瞬間の判断で自然に技が出るよう意識した平生の稽古が必要です。
(途中省略)
剣道は蹲踞して立ち上がり竹刀を交差して始まるのでなく、
九歩の間合いで刀を持った相手を目の前にしたときからすでに
勝負は始まっています。相手の呼吸をはかり、目付けをはかり、
動きの特徴をつかむことから始まっています。
そのような気持ちで一歩一歩、間合いを詰めて蹲踞し、立ち合う。
実に怖いところに入る瞬間としてみているのです。

(出典:「剣道審査員の目2」体育とスポーツ出版社刊 より)

これらの話を読んでいると、日頃稽古の際に、自分はどれほど
立合いの際の心がけを意識しているかと考えると恥ずかしい限りです。

相手と太刀をもって遠間に対峙した瞬間から立合いが始まるのではなく、
相手と蹲踞で向き合った瞬間からすでに立合いは始まっている。
相手と九歩の間合いで対峙したその瞬間からすでに立合いは始まっている。
道場に足を踏み入れた瞬間からすでに立合いは始まっている。
着想をする、その瞬間からすでに立合いは始まっている・・・。

心がけずに自然にできるのは天才だけです。
また、心がけは意識せずには行えないものです。
意識した結果、心がけることが始まります。
そして、その心がけを貫いて習慣化した結果、意識せず自然にできるようになる。
そんなものではないでしょうか。

まず意識しないことには何も始まらないのだなと改めて感じました。

蹲踞の段階から意識するように気をつけて、次は九歩の間合いに立った時、
さらに道場に足を踏み入れたとき、着想をするとき・・・と言う具合に
相手と剣を交える直接的な場面から徐々に遠くに離れていって、
いつでも相手に対する礼の気持ちを欠かさずに
立合いの気分を持つことができるようになっていきたいものだと感じた次第です。

戸締り用心火の用心、一日一善。
健やかな精神は健やかな肉体に宿ります。さぁ、稽古しましょう!

それでは、また土曜日にいつもの道場でお会いしましょう。


試合に思う


9月は全ての日曜日に試合があった。
秋から冬にかけての大会シーズン。

戦績はそれほど芳しくなく・・・それはさておき、負けた試合の内容に悩む(^_^;)
負け方が悪い。
試合は本当に難しいなと感じる。

試合で捨て身の技を出すには、相当強い心が必要だ。
いつの間にか勝ちたくなって、勝ちたくなったら捨て身になれない。
捨て身になれないまま焦り、結局先に打って出て出端を押さえられる。

攻めがなっていないということだろうと思うけれど。

「強い」ってどういうイメージだろう。

11月の西部日本剣道大会に向けて気持ちを切り替えてまたがんばろう。


2005年09月14日

「稽古」について


最近は色々な稽古の場に縁があり充実した剣道ライフを
送らせて頂いていますが、それにしても剣道は難しいですね。
日々色々な発見があります。

今回は「稽古」についてです。

小森園正雄範士の「剣道は面一本!」では「稽古」について
以下のように書かれています。

【稽古内容の方向】

自分の剣道の到達目標を持つことが稽古内容の基盤になってくる。
自分の剣道をどのような内容や姿に築き上げるかと言う到達目標を決め、
これを中核にしながら気剣体一致の有効打突の修得や、
部分的な修正を加えていくことである。
修正した部分を集合させてできた結果的な集合体としての剣道では、
積み木や寄木細工になってしまう。
大木を削り磨いていくことが手順として妥当である。
また、自分の持ち備えている能力だけに頼って稽古をしたとしても、
剣道に幅と深みが出てこない。
そればかりか大きな壁に行き当たってしまう。
その人の生まれながらの持ち味と言うものは一生離れないものであり、
未熟さや非力さを補強したり修正するところにも稽古の意義がある。
さらに、自分の強い部分で相手の弱い部分を打つことができたとしても、
それは当然のことである。このような考え方は後回しにして、
常に相手の強い部分を求め、これをいかにしたら崩すことができるか、
打つことができるか、ということを研究や工夫することが大切である。

【「稽古をお願いする」意義】

剣道では「稽古をお願いする」と言う。
自分より上手(うわて)の人に稽古をお願いする際に、
十分注意しなければならないことがある。
それは、自分よりも上手の人を打った結果をもってして、
自分の技能向上のバロメーターとしては進歩が遅れてしまうということである。
「打った打たれた」ということは結果として分かりやすいし、
ややもすると分かりやすい目の前のことを求めがちである。
しかし、ここに「稽古をお願いする」意義の盲点がある。
自分の内容を上手の人と同じ理合まで引き上げて稽古をした時には、
そこに一時的に背伸びをした未熟さやギャップがある。
上手の人の理合には一日の長があり、上手の人からは、
この理合の未熟さやギャップを打たれるのである。
自分が持っている内容だけで仮に上手の人を打つことができたとしても、
それは理合の次元が違うところで、
たまたま打つことができたと受け止めるのが妥当であろう。
上手の人の理合まで自分の内容を引き上げて稽古をすることによって、
上手の人の理合に近づくのである。
さらに、上手の人に打たれることによって、
上手の人の理合を知ることができるのである。
ここに、上手の人の理合まで引き上げてもらう、
「稽古をお願いする」と言う意義がある。

(出典:「剣道は面一本!」 小森園正雄著)

稽古と練習は似て非なるもの。
稽古は相手のお陰で引き上げてもらうもの。
練習は自分の取り組みで自ら技量を上げるもの。
そんなところでしょうか。

奥の深い剣道に触れている皆さんはそんな日本文化の担い手です!
素敵だとおもいませんか?

戸締り用心火の用心、一日一善。
健やかな精神は健やかな肉体に宿ります。さぁ、稽古しましょう!

それでは、また土曜日にいつもの道場でお会いしましょう。


2005年09月01日

「足構え」について


さて、先日左足についてご紹介したところ、かのイケ面外科医の
小倉君からコメントが届きました。

以下、小倉君のコメントです。

九大の小倉です。
先週より体調を崩してしまい、医者の不養生という情けない状態です。

さて、在津さんの紹介された「左足の踏み方」についてですが、ご指摘の通り、
腓骨は下腿の細長い骨で外側(内側に脛骨とよばれる太い骨があり、弁慶の泣き
所は脛骨の前部分です)に位置しあまり意識されない骨です。
また、こむらがえりは下腿の背側にある腓腹筋の痙攣(足がつる状態)であり、
まさに腓はこのこむらがえりのことを指しています。

私も実際に踏み方を試してみましたが、自然に親指の根元に力が入ります。実際
は腓腹筋の外側とヒラメ筋(腓腹筋の奥にある平べったい筋肉で名前の由来も平
べったくてヒラメみたいだからこう呼ばれる)の外側を意識させているのですが
、この「腓骨を伸ばす」が一番飲み込みやすいのではないかと思います。親指の
根元を直接意識させずに自然ともっていくには非常になるほどと考えさせられま
す。先人の教えは偉大です。

とのこと。

今度ぜひ腓骨について教えてくださいね。

さて、今回の武蔵研修会で色々と発見があったのですが、
その中で、横山先生に言われた一言がとても印象に残りました。

それは足構えについてです。
「君は前後に足が開きすぎているよ。」と一言。
「それでは、腰からタン!という打ちがでないよ。」と。

先週ご紹介した警視庁の足の基本をすぐに思い出しました。
注意していたはずなのに・・・。
そこで、指摘された直後の稽古で意識してみたら・・・

確かに立合いが始まってすぐは意識して前後の足幅をせまめに構えています。
ところが、立会いが進むにつれて前後に大きく開き始め、
はっと気がついたときには大きく前後に開いた上に
最終的には足が撞木足になってしまっているではありませんか!

自分がそんな風になっているとは全く気がつきませんでした。

見ているとほとんどの方が同じような状態に。
疲れてくると足が前後に開いていく傾向にあるようです。
これは取り組む価値があるポイントではなかろうかと感じた次第です。

戸締り用心火の用心、一日一善。
健やかな精神は健やかな肉体に宿ります。さぁ、稽古しましょう!

それでは、また土曜日にいつもの道場でお会いしましょう。