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2005年12月06日

「技」について・・・胴技7種


今回は高野先生が書いている50種の技の中から、
その最後となる【胴技7種】をご紹介いたします。

いくつイメージできますか?

ちなみに、居り敷き胴とは絶ちの形7本目の胴の様に
形膝を曲げながら胴を撃ち最終的には地面に膝をつく撃ち方です。

立胴が、今で言う抜き胴ですね。

◆胴技7種

1.摺上胴

 敵上段又は中段等に構へ、我は中段又は下段に構へて守り居る時、
 敵より我が面へ撃ち込み来るを摺り上げ居り敷きながら胴を撃つ。

2.居敷胴

 双方下段、中段等に構へ守り居る時、敵より我が面へ撃ち込み来る。
 その太刀に構はずして迅速にすれ違ひつつ居り敷き胴を撃つ。

3.立胴

 構へ同前、敵より我が面へ飛び込み手を伸ばして打ちくるを、
 その太刀に構はず如何にも早く胴に抜け、居敷きを為さず立ちながら撃つ。

4.片手面胴

 構へ同前、敵より突き来るを体を敵の左に開き、
 片手にて敵の左半面を撃ち又は手を返して敵の右胴を撃つ。

5.面小手胴

 中段の構にて守り居る時、敵中段より下段に下げんとする所を
 一歩踏み込み正面を撃ち、一歩引きて小手を撃ち、
 左足を踏み出し手を返して敵の右胴を撃つ。

6.鍔競胴

 双方鍔迫り合となりたる時、隙を見て立ちながら胴を撃つ。
 敵を押す時敵もまた押し返す。その伸びたる手の下より撃つことあり。
 これは敵の力を利用する撃方なり。

7.小手懸胴

 敵上段我は下段中段等にて敵の小手を撃たんとする色を示せば
 敵その太刀を避けんとする所を迅速に飛び込み撃つ。

胴技は、本当に心が練れていないと出せませんよねぇ・・・。

よく「昇段審査では胴は撃たない方がいい」といわれたりしますが、
色々な話を整理してみると、どうやら
「完璧な胴技が出せないなら撃たない方がいい」と言うことのようです。

逆に言うと、機会を捉え、刃筋正しく胴技を出せるなら、
昇段審査でも評価は高いということです。

小手面胴などは今でも十分取り組んでみる価値がありそうですね。
技の連結と言う観点からも興味深いです。

戸締り用心火の用心、一日一善。
健やかな精神は健やかな肉体に宿ります。さぁ、稽古しましょう!

それでは、また土曜日にいつもの道場でお会いしましょう。


2005年12月03日

剣道の良いところ


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竹刀を刀として考えれば、絶対に相手に打たせてならないのに、
打って反省、打たれて感謝、上手に打たれる人は、
上手に打つ可能性のある人などの言葉自体が矛盾している。
奥が深いと感じました。

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ある方からのメールで上記のようなお話を受けました。
これについて感じることを書いてみます。

「剣道」のよいところは、潔く切られてもまた次があることではないでしょうか?
死活の技術である「真剣の剣法」だとそうは行きません。

竹刀で切られても命までは失わないからこそ、
相手の竹刀をよけるのではなく、潔く切られるという選択肢も選べる。
その選択を心にもてるからこそ捨て身の技の稽古ができる。
捨て身の技の稽古を通じて命の捨て所をわきまえて行くのだと思います。
捨て身になるたびに命が危うかったらそこから学んだ頃には死んでいますよね。

打たれても死なないわけですから、打たれることを厭う必要がなくなります。
お陰で、打たれたことの中から多くのことを学ぶことができるようになります。
打ってくれたお陰で成長できるわけですから、
ここに「打たれて感謝」という気持ちもうまれるのではないでしょうか。

強い先生ほど、時々私達でも打てたりするのも同じ理由だと思います。
本当に強い先生は、打たれるときは潔く打たれているからでしょう。

「自分は成長したいが相手の成長なんて関係ない」という剣道ではなく、
相手がいて自分がいる。相手のお陰で自分が成長する。
ついつい「打たれたくない」という剣道になりがちな所を戒めてあえて「打たれる」。
「打たれない剣道」には進歩がないのは明らかです。

逆に言うと、一度や二度「打った」からといって、
同じ相手で、同じ場面が百回あったとして、百回全て打てる完璧な技を
いつでも出せるようになったというわけでもないと思います。

その意味では、打つことができた中にも、「なぜこんなに完璧に打てたのか」から始まって、
いくらでも反省点を探すことができるのではないでしょうか。

そこをさらに意識して定着させたり、改善したりしていくという姿勢が、
次の一撃の質を高めることにつながる、だからこそ「打って反省」なのだと感じます。

竹刀を使った「剣道」だからこそ可能な求道活動だと思います。

剣道が奥深いことは全く同感です。
あくまで剣の理法を修錬する中にしか明日はないわけで、
一番大事なのは竹刀を握って稽古をすることですね。

一緒に答えを探して取り組んでいきましょう。


2005年12月02日

先々の先の技について


先々の先の技について私が最近考えていることを書いて見ます。

これまで、私は、剣道の技はどれも同列なモノだと認識していました。
先々の先、対の先、後の先、そのどれもに同等の価値があると思っていました。

一方で、相手と立ち合う時に、仕掛け技でいくのか、
応じ技でいくのか、或いは担ぎ技で行くのか・・・。
それらの「技の選択」については、はっきりとした基準を持っていませんでした。

「先々の先の技」の評価が高く「後の先の技」は評価が低い、或いは、
「後の先の技=待ちの技」というイメージに対して違和感がある一方で、
いきなり「後の先の技」を狙っていくというのもしっくりこないものを感じていました。

下記の記述に出会うことで、このような漠然とした「技観」が少々変わりましたので、
参考になればと思いここでご紹介いたします。

「忘れられた攻防一致」

剣道においては攻防一致とよく言われるように、相手と自分自身、
どちらにも50パーセントずつ打つ機会、可能性を秘めています。
ところがその50パーセントの中だけで、お互いが自分勝手に打ち込み、
一方、相手の打ちはというと、たとえば相手の懐にもぐり込むようにして、
もがき苦しんでその打突を避けている。
「打ち上手に打たれ上手」という考えは、そこには全くなく、
「打ち上手に避け上手」が剣道であると勘違いしてしまっているのです。
すなわち攻撃のための攻撃、防御のための防御でありそれらは全く分離されてしまっているのです。
いわゆる50パーセントの剣道であり、よく言えば激しい剣道ですが、悪く言えば、全く優雅さがない。
言い換えれば、次への展開を切り開く分野がなく、ただ単に自分勝手に打ち込んでいくだけのものなのです。
剣道本来の「打って良し、返して良し」という内容ではなく、
「打って良し、避けて良し」という内容が、現在では主流となってしまっているのです。
私は師匠(父)以外で、自らの剣道に最も影響を受けたのは阿部三郎(範士八段)先生です。
まだ私が学生で、恐らく先生が45〜46歳の頃だったと思います。
当時の先生とのお稽古は今でも忘れることのできない強烈な印象として残っています。
先生の攻めと防御の中には切れ間がなく、その起こりを捉える柔らかさ、そしてその起こりが遅れたらすり上げる、
さらにそれが遅れたらいよいよ応じ返すという三段階にわたるバリアが張りめぐらされているのです。
懸かる方からすると、ひとつの城壁を乗り越えていったと思ったら、
そこにはもうひとつの壁があり、尚かつそれをも乗り越えて「しめた!」と思うと、
最後の城壁でガツンとやられてしまう。
一言で言えば、攻防における懐の深さというのでしょうか。
そういう稽古に我々は凄く憧れたもので、それが本当の意味での攻防一致だと思います。
相和するということが受け入れられないのは、技術的に解説するならば、
その攻防一致が先に述べた用に分離されてしまったということも、大きな要因であると考えます。
打突の好機がタイミング化してしまっているのです。
このタイミングは若さの特徴なのです。
そうすると若い方が勝つのです。
これがスポーツの特徴でもあるのです。

(続・剣道芸術論 馬場欽司著)

ここに出てくる阿部先生は、今の所、私が目指す剣道イメージそのものとなっています。

阿部先生のような「打って良し、返して良し」の剣道を目指す取り組みは、この逆の流れになる気がします。

つまり、相手と向かい合ったら、まずは「先々の先の技」でしとめることを目指すところからはじめる。
「先々の先の技」は、余程のことがなければ決まらない究極のイメージですので、当然ここで決めるのは困難です。
そこで、「先々の先」を捉え損ねたら、次は「出端」を捉える技に切り替わっていきます。
相手が上手で、この「出端」を逃せば、続けて「起り」を捉える技に切り替えます。
この「起り」すら捉えきれなければ、繰り出された相手の技に対して「応じる技」、
このタイミングにも遅れれば、相手の竹刀がまさにこちらを切ろうとするところで「返し技」、
それでも駄目なら潔く切られる。
上記のいずれかで打突したものの決まらなければ、さらにそこから上記の繰り返しで
休みなくよどみなく粛々と攻め続ける・・・そんな剣道をイメージしています。