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2006年02月24日

トリノ五輪を観て思ったこと


最近は深夜にトリノオリンピックを放映しているので
寝不足の方も多いのではないでしょうか?

今朝は、荒川静香選手の金メダルに日本中が
明るい気分になったことでしょう。

どの選手も本当にがんばっていますよね。

さて、ご存知の通り、剣道はオリンピック競技ではありません。
同じ武道でも、柔道はずいぶん前からオリンピック競技ですね。

剣道をオリンピック競技にするべきか否かについては
昔から賛否両論あって、私は個人的には反対派です。

韓国が国技として剣道をオリンピック競技化しようという動きがありますが
もし、そのような形で剣道がオリンピック競技になるのなら、
日本は選手団を送るべきではないという立場です。
韓国の国技といわれるのがいやだからではなくて、
韓国の人たちが考えている剣道と、日本の剣道は違うものだという立場が
必要だと思うからです。

柔道の選手が優勝した時に見せる試合終了直後のガッツポーズ。
あれがどうしても納得がいきません・・・^_^;

他の競技では自然に受け止められるのに、柔道だけはどうしても・・・。

試合で相手を倒した後は、敗れた相手にも敬意を表して
黙って礼をしてその場を去るべきなのでは、とか考えてしまうわけです。
剣道の試合だったら、ガッツポーズをした時点で一本取り消しですもんね。

勝ち負けに拘泥しすぎているのではないか、
武道の本質である「人間形成」がおろそかになっているのではないかと。
あれでは武道とは呼べないなぁと思ってしまうのです。

さて、先日トリノオリンピック関係の番組で
アルペンスキーの佐々木選手がインタビューを受けているのを観ました。

インタビューの中で、彼は先のオリンピックで惨敗した後に
「もうやめよう。なんで好きなスキーでこんなに努力しなきゃいけないのか」
と思ったというようなことを語っていました。

で、その後続けて、「というか、アルペン競技をやめようと思った。」
と言う趣旨のことを語ったのを聞いて、彼は本当に天才なんだろうなと感じました。

彼自身、以前から「自分はスキーの天才だ!」と豪語していて、
その辺りが、少し傲慢かなと感じるときもありましたが、
実際問題、普通はスキーを上手にすべれるようになるまでに、
少しくらいはいやなこととかあったり、努力したことがあったりしますよね。

特に、オリンピック選手に選ばれるような選手の場合
そこに達するまでには、それは数多くの試練を乗り越えてきたはずです。

それらの過程を飛び越して到達したレベルが、いきなりオリンピックレベル。

ところが、オリンピックのアルペン競技でさらに一番になるという、
究極の一握りに入るためには、やはり才能だけでは難しい。
そこで必要な努力は並大抵のものではない。

通常は、オリンピックに選ばれるレベルまで来た人なら、
そこまで努力して努力してたどり着き、たとえ、それでもトップははるか遠くだとしても
そこで「もうやめよう」といえるでしょうか。

いわんや、あと少しでトップが見える位置まで来ていたりしたら、
それでもあと少し足りない。トップに立てないという壁に直面したときに、
「もうやめよう」といえる選手は少ないのではないかと思います。

そこまでに乗り越えてきたあまたの苦労を思えば、もう一息!というのが普通かなと。

そんな発言ができる彼が天才でなくて、誰が天才かというほどの印象を受けました。

前回のオリンピックでは、とりたてて特別な努力をしなくてもオリンピック選手になれたのだと思います。
彼は天才だから、そこまで来るための努力を努力と感じなかっただけかもしれませんが、
いずれにせよこれはすごい才能です。

そんな彼の目の前に現れた、最後の壁。
これを越える「努力」だけが彼にとっての「努力」。

そういう意味では、オリンピックは、努力する天才と、努力する天才と競えるほどに
すさまじい努力をすることができる天才が頂点を競う場所なのだなと改めて思いました。

少しくらいスキーの才能がある程度ではオリンピックに選ばれるほどのレベルになれません。
ただ、単にスキーをすべる天才だからといってオリンピックで必ずトップに立てるというわけではない。

「数十年にひとりという才能」をこのまま埋もれさせていいのかという周囲の期待にこたえる形で、
一度は敗れた天才が、改めて周囲の協力と自らの努力を結集し、今回のトリノでの再挑戦になったということでした。

チャレンジ・・・自分の才能と他人の才能とを競ってどこまで上に行けるのか。
そうしたチャレンジができる場こそ「オリンピック競技」の場なのだと思いました。

佐々木選手のインタビューを聞いてから、オリンピックが以前よりエキサイティングに
輝いて見えるようになりました。

この一件で、私の中のオリンピックに対する考え方が少し変わりました。
が、その一方で、やはり、剣道はオリンピック競技に参加しなくても良いかなとも思った次第です。

剣道をオリンピック競技にすべきかどうか。
武道としての剣道、勝敗を超越して人間形成を目指す剣道を捨てねばならなくなる危険がぬぐえません。

競技の世界はそれほど厳しい世界なだけに魅力的な世界です。
その意味では、先に話した柔道選手のガッツポーズも大目に見るべきかなとすら思います。

一握りの天才が、努力に努力を重ねてひとつのルールの下で競い合って頂点を目指す。
そんな魅力的な場であればあるほど、剣道に取り組む上での価値観が画一的になりはしないか。
そこでは「人間形成」という要素がおろそかにされはしないか?
一部の優秀なアスリートだけが人間形成を果たせたとしても、
その裾野では人間形成は不可能になってしまったりしないか。

日本で剣道に取り組む全員が、一様にオリンピック出場を夢見て剣道をするようになったら・・・。
一部の天才たちだけが評価される世界になったら・・・。
試合に勝つという結果だけが唯一の評価であるなどといわれたら・・・。

懸念は絶えません・・・このことを考えるとよるも眠れなくなっちゃう!(*^_^*)

さて、みなさんはどう思われますか?


2006年02月10日

間合いについて


今回は「今年の稽古のテーマ」について書いてみます。

自分の間合いを知っていますか?

私は、昨年の終わりごろ、自分の間合いをわかっていないことに気がつきました。

なぜ気がついたか。

昨年の稽古では、「足と腰で行う剣道」がテーマでした。
どうすれば「その場でもがく剣道」から脱却できるかに取り組んでいました。
その結果、足と腰の使い方だけを研究しても解決しないことに気づきました。
足と腰で剣道を行うために不可欠なもの、それは、「先」の意識だったのです。
そこで、途中で「先を取ること」を第一のテーマに変更して稽古に臨みました。

すると、以前に比べて足や腰が前に出るようになってきたのですが、
すぐに次の問題が発生しました。
今度は打突が深くなりすぎるようになったのです。
気がつくと、すごく近間まで接近してしまっています。

なぜだろうと悩んでいたある日、いつものように稽古をしていると、
ある先生から「打ち間に入ってから考えてちゃだめだ。」と注意されたのです。
それも、立て続けに色々な先生から・・・。

「打ち間に入ったらすぐに打つ。これが大事だ。」と。

自分ではもちろんそんなつもりはありません。
つまり、打ち間に入っていることに自分で気がついていないのです。

考えてみれば、間合いについて取り組んだことなどそれほどありませんでした。
深く考えたことも正直ありません。
自分が一歩踏み込んで打てる距離が「打ち間」だと思っていただけです。
遠間、触刃の間、交刃の間、一足一刀の間、近間と言葉は知っていました。

交刃したら、後は自分が届きそうだと感じた距離から打ち込んできただけです。

これではいけないと感じて、すぐに間合いの研究を始めました。

そういうわけで、私の今年の稽古は「間合いを知ろう!」がテーマです。

皆さんはどんなテーマで稽古をされていますか?

よかったら聞かせてください。