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2005年05月16日

「先」について


以下は、あくまで、「先」に関する私見である。

高野佐三郎範士の「剣道」によると「先」には「3つの先」があるという。「先々の先」「先(先前の先)」「後の先」の3つがそれだ。

剣道においては「機先を制する」ことが最も大事であり、この「3つの先」を手中に収めることができるかどうかが最重要課題であることには異議も少ないだろう。

剣道にはただ「攻め」があるのみで「受ける」も「防ぐ」も、「攻め」の途中の姿としてあるだけであり、単独では存在しない。と高野範士は言っている。つまり、「かわす」も「外す」も「切り落とす」も「受ける」も「張る」も、「受ける太刀は打つ太刀」の精神で、全て瞬時に「切る太刀」「突く太刀」に変わるのでなければならないと言う考え方である。

例えば「切り落とす」と言う場合には、切り落としてから後に勝つのではない。
切り落とすと同時にいつの間にか敵に当たるのだという。
これを「石火の位」、或いは「間髪を容れず」という。

そのような精神で相対したときに、相手が起こるより先に、「敵の起こりを機微の中に見つけて直ちに仕掛け」て打つのが「先々の先」。敵の「先」に更に先んずるの「先」であるから「先々の先」という。

この「先」では、敵はまだ形になっていないところを、こちらから始めて形に表すので、傍からはこちらが一方的に打ち込んでいるように見える。こちらから懸かるので「懸かりの先」とも言う。

敵のほうから隙を見て打ち込んできたものを、敵の「先」が効を奏する前に早く「先」を取って勝を制するのが「先」である。これは「先前の先」とも言う。応じ返したり、摺り上げたり、体をかわして引きはずして打つなどは全て「先」の技である。敵からも懸かり、こちらからも懸かった上で、お互いに対抗して勝つので「対の先」ともいう。

最後に、敵のほうから隙を見て打ち込んできたものを、切り落としたり凌いだりした後で、敵の気勢が萎えるに乗じて打ち込んで勝つのが「後の先」である。

日本剣道形にはこれらの「先」が盛り込まれていると言われている。1・2・3・5本目が「先々の先」の技、4・6・7本目が「後の先」の技を示している。形の上からだけ見ると、日本剣道形には、仕太刀が先に仕掛けて勝つ技は無い。全て打太刀からの仕掛け技となっている。これが「先」に対する理解を悩ます元凶であった。

考えれば考えるほどわからなくなる「先」の問題について、最近、ひとつの興味深い考え方に出会った。

三橋秀三範士が生前「先」について語った録音テープを起こしたという剣道日本5月号の特集記事がそれである。

これによると、「先」を考えるときには、「技における先」と「機会における先」とを区別して捉えるべきだとある。なるほど、これならばいくらか理解しやすいかもしれない。

武蔵が「五輪の書」で説いた「先」や、高野範士が「剣道」で説いた「先」は、いずれも技が発露する局面における「先」を解説したものであると考える。

この場合、「先々の先」とは仕掛けて打つ理、「先」とは相打ちの理、「後の先」とは切り落とし凌ぎなどして敵の気勢が萎えた後に打つ理を言う。

一方で、日本剣道形に内包されているといわれる「先」は、機会を捉える局面における「先」を表現したものであると考える。

この場合、「先」自体は打突の機会を逃さない心持ちを示す言葉として存在し、理合としては「先々の先」と「後の先」の2種類しかない。

ここでは、「先々の先」とは「読み」によって機会を得る理であり、「後の先」とは「反射」によって機会を得る理である。

この考え方で行くと、「先々の先」の剣道を目指すと言うことは、心に「読み」を働かせて機会を捉え、一拍子に「仕掛け技」で勝つ剣道と解釈できそうだ。

技自体は「先」や「後の先」の技であっても、心に「読み」を働かせて機会を捉えるならば、「先々の先」で行う応じ技、返し技というものも成り立ちそうだ。

機会を捉える局面における「後の先」では、あらゆる剣道体験の集積からかもし出される「剣道勘」に基づいて、あらゆる敵の打突に対応し、反射的に機会を捉え、切り落とし、凌いだりして敵の気勢をそぎ、相手の気勢の萎えたところで無理なく勝ちを収めることができるという究極の姿がイメージできる。

形に表れるのはこちらが後であるにも拘らず、いかなる攻めに対しても、こちらが形勢を逆転して、最終的には「先」を取り、無理なく勝ちを収めるというところに極意がありそうだ。

色々な文献を読んでいると、剣道は、「若いうちは「先々の先」の稽古を積んで、老いては「後の先」にて円熟する。」というイメージが強い。

実際には「後の先」と言う言葉が、あまりよい意味で用いられなかったり、積極的に解釈されなかったりして、なかなかうまくイメージできなかったりするが、これも、三橋範士が言うように、技の局面、機会を捉える局面の2方面から「先」を考えていくと、少し言葉を足して、「「先々の先」で「機会」を捉え、「先々の先」の「技」で勝ちを収める修行から始めて、「後の先」で「機会」を捉え、「後の先」の「技」で無理なく勝ちを収めることができる境地に進むように修行を積む。」というイメージで進むべき方向が見える気がする。

まずは、この「機会」を捉える局面に際して、「読み」で捉えるのか、「反射」で捉えるのか、この違いによって「先々の先」であるか「後の先」であるかが分かれる。
次に、いずれかの「先」で「機会」を捉えたら、「3つの先」のいずれかの「技」で勝ちを収める。
これが「先」の全体像であると理解できそうである。
「機会を捉える局面」においては、意識を超えて反射の世界で捉えきる「後の先」が、「技の局面」においては、相手が形になる前に仕掛けてしとめる「先々の先」が奥義と言うところか。

この解釈で考えると、「後の先」にて、「読み」ではなく「反射」的に「機会」を捉え、「先々の先」の「技」で勝ちを収めるなどと言う神業的な剣道もイメージできる。技の起こりではなく心の起こりを捉え、思う前に捉えるというのはこのようなイメージだろうか。これなら妖怪さとりをさえも倒せるかもしれない。

山岡鉄舟も、間違った修行を続けていては、年老いたり病にかかったりして体が思うように動かなくなったときには、剣の修行をしたことが無いものにすら及ばないようになってしまう。このような剣道では、折角の修行も時間の無駄と言わざるを得ないと言っているようである。

年老いてなお輝きを失わない「不老の剣」を目指したいものである。

そのためにも、この「先」についてしっかりと研究し、まずは、「4つの許さぬところを「機会」として逃さず捉え、相打ちの精神で積極果敢に打ち込んでいき、相手の「先」が効を奏す前に「先」を捉えて勝ちを収める、「(先前の)先」の剣道からはじめて、「先々の先」の剣道へと進み、「後の先」の剣道を最後の楽しみとするような稽古に取り組んでいくイメージで考えるのがよさそうである。


2005年05月10日

打突のメカニズム


今年で剣道に取り組み始めて29年、来年2006年秋には、なんと、あしかけ30年になる。
30年と言えばひとつの区切りである。そんな区切りの年を目前にして、未だ剣の操作に関する悩みは尽きない。
この10年間は、「気剣体の一致した打突を行えるようになる。」という目標のもと、「気合を発する瞬間、剣先が打突部を捉える瞬間、右足が踏込む瞬間の3つの瞬間を一致させた打突を行うことが「気剣体の一致した打突」の意味である」と言う仮説をたて、ただひたすらに、「気剣体の一致した打突」を目指して取り組んできた。が、その実現も儘ならぬ3年ほど前から、「一拍子の打ち」なる新たな難問に直面し、悩みは深まる一方となった。
そこで、解決の糸口を探して、色々な文献、口伝、読み物、先生方の講話などを求めてみた結果、ひとつの仮説を新たに立て、この30年間の節目の最後の期間における修行課題とすることにした。

【課題】

従来から問題であった「気剣体の一致した打突」を実現するにあたり、「気合を発する瞬間、剣先が打突部を捉える瞬間、右足が踏込む瞬間の3つの瞬間を一致させた打突を行うことが「気剣体の一致した打突」である」と言う拙い仮説のもとで取り組んできたが、充分納得がいく成果にたどり着けていない。

そこに新たな問題として、「一拍子の打ち」という課題が生じた。

この要素を取り入れて、「気剣体の一致した打突を一拍子で行う」という発展的な課題に取り組む必要性に直面するにあたって、ますます従来の考え方では解決できないとの思いが強くなった。

さしたる指針も無いまま取り組んだこの3年間の体験から考察すると、打突動作が「振り上げる→振り下ろす」というふたつの動作から成り立つと考えた場合、「振り下ろす」動作の方に意識のウェイトを置いて振り上げる動作を切り離せば、擬似的な一拍子で、従来の考え方の「気剣体の一致」を果たしながら打突部を捉えることができる。

が、「振り上げ・振り下ろし、ふたつの動きを一拍子で行え」といわれた場合、「振り上げる」動作だけを切り離すことはできず、「振り上げる」時点から意識して体をコントロールする必要がある。

実際には無意識に頭が「振り上げる→振り下ろす」と2種類の動作を考えてしまうため、振り上げからでは、どうしてもニ拍子の打ちになってしまう。

ここにいたって、打突動作の定義自体を改める必要を感じはじめたが、そうした「打突動作を全て一拍子で行う」際の体の運用に対して、統一した明確なイメージはわかない。

そのため、稽古に取り組めば取り組むほど、「足運び」と「剣運び」というふたつの動作を一度にコントロールしようとして頭が混乱し、「気・剣」と「体」が空中分解する、いわゆる「手打ち状態」に陥るという悪弊が生まれ、解決どころか、全てが悪い方向へと向かっているのを感じるにいたった。

【取り組みの糸口】

この状態を乗り越えるべく、色々と文献や資料を当たってみた結果、森田文十郎範士の「腰と丹田で行う剣道」にある「剣の完全操作」と言う考え方にたどり着いた。

そこで、範士の考え方をベースに、色々な文献を参考にして、「一拍子の打ちの体運用メカニズム」を自分なりにイメージした上で、新しい打突のメカニズムについて考えてみることにする。

【仮説】一拍子に打突するための体の運用そのものが気剣体の一致の意味するところである。

もしも、この仮説が正しければ、「打突を一拍子で行うための体運用メカニズム」を体得することが、そのまま「気剣体の一致した打突を実現する」ことに直結するはずである。

【一拍子の打ちの体運用メカニズム】

「腰と丹田で行う剣道 森田文十郎範士著」を参考にして自分なりに考えてみた一拍子の打ちの体運用メカニズムはおおむね下記のようなものである。

左脚を蹴る(正確にはぴょんと蹴るのではなく、左右の足の膝で体重を抜くと同時に左足の湧泉の辺りを踏んで重心を前に移動させる初動を起こす)ことによって生じた初動エネルギーを、体の対角線部位を順番に機能させつつ、体の直線運動(歩く動き)と回転運動(下半身を使って上半身を動かす)をうまく連携させながら伝達していき、最終的に打突の瞬間に剣先にエネルギーを集約させつつ、そのエネルギーをどこにも逃がさず剣先から回収し、必要であれば、初動のエネルギーだけで、何度でも繰り返し一拍子の打ちを繰り出すことができるイメージで体と剣を運用する。

※縦の並びが一緒のところで連携している。

左腰回転→左腕前出→左拳押し
→→→→→右腰回転→右腕前出→右拳押し→残心
→→→→→→→→→→→→→→→左脚出し→左足引付→次の始動
→→→→→→→→→→左腕引き→左拳引き→残心
→→→→→右脚前出→右脚引き→右足踏込→次の捌き
→→→→→→→→→→→→→→→手の内 →残心
→→→→→→→→→→→→→→→気合掛声→残心

2007年9月現在では少し発展して下記のように考えています・・・(*^_^*)

左拇指丘踏込→左腰回転→左拳始動→→→→→→打突→→→打ち切り
→→→→→→→→→→→→右腰回転→右腕前出→打突→→→右拳押し
→→→→→→→→→→→→→→→→→左脚出し→→→→→→左足引付→次の始動→残心
→→→→→→→→→→→→→→→→→左腕引き→打突→→→左拳引き→→→→→→残心
→→→→→→→→→→→→右脚送出→右脚引き→右足踏込→→→→→→次の捌き→残心
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→気合掛声→→→→→→→→→→→残心

右足の踏み込みと打突と掛け声を一致させた後に、さらに左足を引き付けながら左右の拳を押し引きして、打突部位より更に深いところまで切り下ろすことで打ち切ります。

左脚が蹴ることで腰が右に回転を開始し、同時に左腕・左拳が前に出はじめる。
この動きが初動となり、体に打突のためのエネルギーが供給される。
次に、右に回転した腰が反動で左に回転する動きに呼応して右脚が前に出はじめる。
ここまでをほとんど同時に行うことで、剣道の打突の動きに特有な「右脚と右腕と左腕の3部位がほとんど同時に前に出る形」が無理なく現出する。

前に出ようとした右脚にバランスするために、呼応して左腕が更に前に出て、極点まで左拳が前に出る。極点を過ぎると右脚は下がり始め、左腕も呼応して下がろうとし、左拳も引き始める。
その時体の反対側では、腰の左回転に呼応して右腕・右拳が前に出て、この動きにつられた左脚は、前に出るエネルギーを蓄えはじめ、やがて右脚が引き気味に踏込んだ瞬間に左脚は前に出始める。

この時、右足を踏み込むと同時に相手の打突部位を剣先が捉えると、そのまま左足をひきつけながら、左拳は引き手、右拳は押し手となってさらに深く切り下ろす。この点に気合と手の内を集約することによって打ち切ることができ、左足のひきつけ完了と同時に再び拇指丘を踏んで右足を前に送り出しつつ打ち抜ける。こうして最後に振り返って残心を示した時、ここに気剣体の一致した一拍子の打突が完成する。

一瞬の打突点を過ぎると初太刀が決まらなかった場合には、すぐに左脚は自然に前に出て、特に意識せずともこれが左足の引きつけを呼ぶ。左足の引きつけ完了とともに、両方の拳は押す力・引く力から解放され、自由になり、右脚は前に出る力を保ち続け、引きつけた左足を起点に腰を右回転させれば、続けてこの運動のスタートに戻ることができる。

後は、歩く動きと同様に、特に新しいエネルギーは必要なく、初動のエネルギーを逃がさずに同一の運動を繰り返す。こうして、初動で与えたエネルギーをどこにも逃がすことなく一拍子の打ちが必要なだけ続いていく。

上記メカニズムを想定すると、上図に示されるように、右拳の押し・左脚の引きつけ・左拳の引き・右足の踏込みが一致する点があることがわかる。気剣体の一致はまさにこの点で実現するべきものであると思われる。この点を「気剣体一致の打突点」と呼ぶことにする。

気剣体一致した打突が「気剣体一致の打突点で行われる打突である」と考えるなら、上記の体の運用メカニズムの体得の中に、気剣体の一致した一拍子の打突の答えがあると思われる。

剣道への取り組み30周年を迎える2006年の10月までに、この「気剣体の一致した一拍子の打ち」への取り組みが一応の成果を生むところまで根気強く鍛錬を続けたいと思う。


2005年05月06日

一刀流極意「鍔割り」について


「引く波は寄せる波、寄せる波は引く波」と思って、相手が出るのを一歩引いて外したら、その後に打つ。


2005年05月05日

京都大会に思う


先日、深まる剣の悩みに、何かしら光明を見出せないものかと思い、生まれて初めて京都大会を見学に出かけた。
そこで見た諸先生・諸先輩の立合いに痛く感ずるところがあり、自分なりに色々と考えてみた結果、下記のようなテーマを得た。


1.「剣先の攻め」ということについて

京都大会の立合いを見ていると、もれなく剣先の攻め合いを行っている。
それも、ただ剣先をかちゃかちゃとぶつけ合っているようなものでは当然無く、緊迫したムードの中で剣先が触れ合っている。
傍から見ていると、緊迫したムードは伝わってくるが、残念ながら、その意図は良くわからない。

福岡に戻って、京都大会で見た剣先の動きを稽古でまねようとしてみたが、実は同じようにやるのは難しいことがわかった。

そこで、京都大会で見た剣先のやり取りを頭において、色々な文献を読み返したりしてみたところ、「攻め」の理合に行き着いた。

陰陽、虚実、表裏・・・剣道におけるこれらの概念が「攻め」の理論上のよりどころである。

剣先で相手の意図を探り、相手の想念を読み、打突の機会を探って、機会を捉えて逃さず打つ。

打突の機会は基本的に、起こるところ・受けたところ・尽きたところ・居ついたところの4つ。
この4つ以外のところで打突に出るのは「無理」と言うものである。

打突の間合いは基本的に、遠間・蝕刃の間・打ち間・近間の4つの内の「打ち間」から行う。
遠間や近間からの打突も当然ありうるが、基本は確実な打ち間からの打突であろう。

これらの相手の心の状態と機会と間合いを的確に判断して、決断したら迷い無く打突するのが剣道の目指すところである。

相手の心の状態は相手にしかわからないので、そこに推理は欠かせない。
相手の心の状態を推理する上でのよりどころが、上述の陰陽・虚実・表裏といった剣の理合であると言えるだろう。

打突前の剣先の攻防は、「剣の理合」と、これまでの修行で培った「剣道勘」を総動員して行う知的な索敵活動だと言えそうだ。

そう考えると、ただちゃかちゃかと相手の竹刀に自分の竹刀をぶつけているだけでは駄目なことは自明の理である。

2.「ズズーッと迎えに行って、手の内でパンッと打つ」ということについて

京都大会会場にて千葉仁範士のDVDを見る機会があった。
色々と勉強になる大変ありがたい内容だが、もっとも参考になったのは、「相手の打ち気を察したら、ズズーッと迎えに行って、手の内を使ってパンッと打つ。」と言う部分だった。

相手の打ち気が形になる前に、その打ち気を迎えに行くことで形に変えさせ、形として現れた打ち気の起こりを、無理なく打ち据えると言う攻めである。と解釈できる。

3.「一拍子の打ち」について

京都大会の会場の書籍販売コーナーで、「剣の完全操作法」と言う考え方が存在することを知った。
森田文十郎範士が著した「腰と丹田で行う剣道」には、剣道人を悩まし続ける「一拍子の打ち」への取り組みに際しての理法が明快に解説してある。

ここにある内容を研究することによって、長年の悩みの種である「気剣体の一致した一拍子の打ち」への取っ掛かりがつかめるかもしれない。


以上のとっかかりを得て、ますます勇気付けられた京都大会であった。


2005年05月03日

使者太刀


「相手の剣尖を叩いてその感触によって心底を見抜くようにならなければならない。
使者太刀は、あくまで明識正確を期し万遣漏のない役目果たして大技の案内をするのである。
知って攻め、攻めて勝ち、勝っているところを切るというのが一刀流の教えである。」

(出典: 「続・剣道の手順」 剣道範士 佐久間三郎著)


2005年05月01日

「理行合一」ということ


剣道の専門家でない剣道人が剣道に取り組むにあたっては、特に「理業合一」が大切であると思う。
理を学び、行に取り組むことによって、日進月歩の稽古を積まないことには、時間がいくら合っても足りないだろう。

そもそも、剣道の基礎を体得するのにどれくらいの時間がかかるだろうか。

昭和の剣聖、持田盛ニ範士でさえ、「剣道の基礎を体得するのに50年かかった」と言われたそうだ。

剣道の専門家でない剣道人が剣道の基礎を体得しようという場合、そのこと自体、並大抵のことではないということである。

そうは言っても、せめて50になる頃までには、剣道の基礎をおおむね習得したと言えるほどになっていたいものだ。

そこで「理行一致」が必要だと思うのである。

「理」を学び、「行」に取り組むことによって、少しでも早く、剣の理法の習得を目指そうと言うことである。

もう少し広い視点で考えるなら、剣道修行に於いては「事理一致」の修行であるべきで、
「事(技術)」の修行に偏ることなく「理(心)」の修行と歩みを一にして取り組むことが必要だと思う。
文武両道であるべきだ。

剣道の理念にあるように、剣道が「剣の理法の修練による人間形成の道」であるならば、なおさら、剣の理法の修得には、理行両面から取り組むべきであろう。

段位を持つ剣道人としては、それぞれの段位にふさわしい理法を身につけているという意味合いの中でも、段位にふさわしい教養が必要であると思う。

打つことや、勝つことばかりを重んじ、理(心)を軽んずる剣道にしないためにも、まずは自分から、事理一致の修行を実践しようと思う。